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Voice of Fascist

現代ファシズムの可能性と実態の探求、批判的再構築の実行.

民族性について

         

 民族社会主義的世界観を樹立するにあたって、普遍ないし全体、すなわち日本民族性と、個としての日本人ひとりひとりとについて、また両者がとりうる関係について考察することが重要であると考えられる。というのも、我々が民族社会主義者である以上、民族性の本質をめぐる諸点は最も根本的な問題領域に属するものであって、もしこれら諸理念の規定を誤ったならば、民族社会主義的世界観の成立そのものが危ぶまれることになるからである。もちろん、現実世界において力を伴って展開しない理念などは空虚な思弁の産物にすぎない。しかし、だからといって理念規定をおろそかにしてよいというものでもないはずである。以下に民族性の本質をめぐる諸問題を概観し、これに一定の解決を与えることを試みたい。

 

 民族性がひとつの観念であるかぎり、その民族性の性質は大きく二種あるはずである。すなわち民族性は抽象作用の結果としての概念(conceptus, Begriff)であるか、それとも具体者の根拠としての理念(idea, Idee)でなければならない。まず前者について例をあげよう。我々がもし、たとえば「人間性」なる概念を構成しようとするなら、その人は個々具体的な人間を多数観察し、それらの人間に共通の特徴を抽出しなくてはならない。結果として抽出された特徴は、たとえば「理性的動物である」といった程度に留まらざるをえないであろう。反対に、観察された人間全てには共通しない諸特徴、例えば年齢、性別、出身国、家族構成、職業、教育の程度、趣味嗜好、その他全ての諸特徴は捨象されねばならないであろう。このように、経験的にかつ抽象作用を経て構成された観念は、まさしく当の抽象作用の結果としてほとんどの具体性を放棄し、極度に乏しい内包のみを有することになる。さらにその限りで、こうした観念は受動的かつ後行的なものである。というのもそれは論理的に先行するものとしての諸対象をまず要請し、これら諸対象を観察した結果を受容するかたちでしか成立しないのであるから。それゆえこの種の観念を、我々は言葉の厳密な意味にしたがって概念と呼ぶ。そのわけは、概念がそれに先立つ概念把握作用(concipere, begreifen)や、その作用の対象を前提とした、純然たる論理上の仮構物にすぎないからである。

 

 以上のような内実をもつ概念に対し、観念の第二種の区分は理念である。人類はプラトン以来、具体者に先行し、かつ具体者の存在を担保する普遍者としての観念を常に考えてきた。しかしこの種の思想伝統が最も豊かに開花したのは、中世キリスト教世界である。そこでは個と普遍との問題が信仰上の要請を伴って先鋭化し、当時アラビアから西欧世界に再輸入されたアリストテレス哲学の力を借り、天使博士(Doctor Angelicus)たるトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, Thomas von Aquin, ca.1225-1274)において、最大の結実をみたのである。その際、トミズムの伝統の中核を為していたのは、次に述べる二つの命題であった。

  

1.  個物の存在を担保する原理(principium)としての理念(idea)ないし形相(forma)が、個物に対して先在している。

2.  個物は質料(materia)による限定を被ることによって、理念から分離され、具体化する。

 

またしても例を挙げて説明しよう。例えば「美」という理念について考えるとき、この理念は個々の美しいものに先立って存在する。さらにこの美の理念は、個々の美しいもの、例えば美しい花や絵画、美しい音楽、美しい思想といったものが持つ美しさを、あらかじめすべて可能的に含みこんでいる。ではこの美の理念から、個々の美しいものはどのように生ずるのか。スコラ学者はこれを、個体化の原理(principium individuationis)としての質料による作用と考えた。つまり我々の例でいえば、美の理念を質料が限定することにより、個別の美しいものが生ずると理解したのである。すなわちトミズムにおける個物とは、被限定的なるものの謂いである。以上中世スコラ学の教理を参考に、我々の考える理念について説明してきた。再度定義しなおすならば、我々のいう理念とは、個別者に先立ち、個別者の諸特徴すべてを潜在的に内包する存在根拠としての観念のことである。この種の観念は本来の意味でイデア的なのであり、それゆえ「理念」(Idee, idea)と呼ばれるにふさわしい。我々は二種の観念を区別して用いるべきである。

 

 さて当初の問題、民族性と民族個々人とをめぐる問題に立ちもどるならば、我々が観念としての民族性を、二種の観念のうちいずれに分類すべきかは明白であろう。仮に民族性が経験的概念であるとしたならば、それは件の抽象作用によって、民族個々人を内包するものというより、民族個々人が持つ性質の上澄みのごときものに堕してしまうだろう。そこで民族社会主義者は後者の理念を採用する。すなわち北星会宣言に述べられてあるとおり、「民族主義的世界観において、この民族性は人間存在の最内奥にあり、人間の生命を根底から賦活し、根拠づける原理であると見なされる」のであり、言い換えれば民族性とは、民族個々人の存在根拠であり、民族個々人のあらゆる特性を内包した理念に他ならないのである。

 

 以上のごとき民族性の規定を踏まえて、我々はさらに民族性と民族個々人との関係について論じよう。個人主義者は全体が個を抑圧すると考えるのであろうが、民族主義者はこの論法を採用しない。むしろ我々は個が自己疎外によって全体たる民族性の有する豊かさから分離していると考えるべきなのであり、言いかえれば個は、個性という限定性ゆえに普遍たることができないのである。この構造に則って、個人としての日本人は、普遍としての日本民族性から疎外されることになる。然るに我々が先に確認したとおり、日本民族性とは無限の豊かさを可能的に内包する理念であって、その具体的展開形態は、日本人が行うあらゆる生の営みの総和である。それゆえこの自己疎外が意味するのは、日本人個々人が生の全体に対して自らの眼をふさいでいること、すなわち一種の頽落に他ならないのであって、こうした個性を、民族主義者は真の個性とは見なさない。このことの理由は、自己疎外によって民族性から分離された個々人には、もはや自らの生でもって表現すべきいかなる内容も与えられないからである。それゆえ頽落した個人は、生の内容を普遍にではなく、他の頽落した個人に求めることとなる。この結果として、個人が個人を模倣し、もはや個性とは差異と反復の謂いにほかならず、真に創造的な精神はどこにも見出されないという状況が招来される。いびつな個性偏重によって、逆説的に個性の平板化が生ずるのである。

 

 では民族主義者が考える個性とはいかなるものか。すべての個性を放下したとき、そこに残されたものが個性である。「魂に残されたもの、それこそが魂である」(Die Seele ist es, die der Seele bleibt. )(レオン・デグレル)。民族性が単一のものであるにせよ、その単一かつ無限の理念のいかなる側面を、いかなる形式で実際の生において担っていくべきか。遥かな過去より民族に蓄積された伝統を、自らが主体となって如何様に展開すべきか。民族個々人がこの問いを自らに問いきかせ決断を眼前にしたとき、そこにこそ真の民族主義的個性が発現するのであり、この個性は民族性に包摂されつつもその必要不可欠なる一部として顕現し、永遠的なるものはこの個性を通じて、可滅的なるものへとあらゆる矛盾をものともせずに到来するのである。

 

 以上民族性と民族個々人をめぐって、民族社会主義者が採用すべき世界観を簡単に述べた。世界観一般をめぐる諸問題については、いずれ稿を改めて論じたい。