Voice of Fascist

VoFの転載兼雑記/現代ファシズムの可能性と実態の探求、批判的再構築の実行.

世界、世界観および意志について ―戦闘的虚無主義の必要性―

 我々は先の記事で、民族社会主義的な世界観について扱ったのであった。では民族社会主義的なものに限らず、世界観とはそもそも一般にどのような内実を持つものであるのか。三島由紀夫先生が『新ファッシズム論』のうちで述べておられるように、議会制による政治とファッシズムないし我々のいう民族社会主義による政治、これら二つの政治が抱える大きな相違のひとつは、前者が本質的に政治の技術を指すのに対し、後者が世界観の政治である、という点に存する。ではここでいう「世界観」とはいかなるものであり、それは現実の世界とどのような関係にたつものであり、どのように造られるのか。本記事ではこれらの問題について論じてみよう。

 

 我々が出発点とするべきは、人間の有限な知性が世界のすべてを認識しつくすことはできない、という事実である。ここでいう世界とはかつて生じ、現在生じつつあり、また未来において生ずるであろう事象の総体を指すが、我々の知性は今ここにおいて、言い換えれば時間と空間とに限定されてのみ機能するのであるから、事象の総体を認識しつくすことはできない。そしてその限りにおいて、世界はまず我々にとって不可解なものとして立ち現れる。世界を知りえないというこの知的な挫折感はさらに、日常における漠然とした不安と根源を同じくするものである。「私の知らぬ、私を知らぬ無限に広い空間の中に投げ込まれ、私は恐れおののく」(パスカル)。世界の総体が理解不能であるということは、すなわち世界が有すべき根源的な意味や価値、さらにはそれらから導出されるべき我々の生の根源的な意味や価値、これらのものが究極的には把握されえないということを意味する。換言すれば、この世がいかなるものであるか、またそれゆえこの世でどのように行為すべきか、こうしたことの全てを我々はついに知ることがない。我々の生はいわばその場しのぎの、かりそめのものとなり、それが本来持つべき躍動や充足感を喪失する。人間を取り巻くこうした状況が、通常「虚無的」(nihilistisch)と呼ばれるものである。

 

 しかしながら、無意味な世界のうちで受動的にその日を暮らす、このようなことに耐えられるように人間はできていないし、またそうあってはならない。人間はひとつの実存として、秩序だった世界のうちに生を送りたいという正当な欲求を持つ。ここに世界解釈と、その結果としての世界観なるものが登場するのである。世界のうちに生きる人間は、述べたとおり世界の全てを理解することができない。しかし人間は経験を手掛かりに、世界を解釈することができる。そしてその際この解釈行為は、善悪、真偽、美醜、その他一切の普遍的価値判断を考慮しない。つまり世界解釈とは、解釈者自身にとってこの世界がいかなるものであるべきか、という実存的当為に基づいた、意志による独断的行為でなければならない。それは一切の道徳的な束縛を無視し、蹂躙するものでなくてはならないのである。こうして人間は意志に基づいて各々なりの世界観を構築し、各々の世界観を世界へと、いわば投げかける。そのときもし、この世界観が脆弱であり、その体系の内部において矛盾を多く抱えるものであったなら、その解釈者は世界解釈に失敗するであろう。反対にその世界観がそれなりの強度を備え、首尾一貫したものであったとしたら、その解釈者は世界のすべてを説明しうる原理を、今や手にしたことになろう。ここにこそ民族社会主義というひとつの世界観が成立することになるのである。

 

1 こうした生の根源的価値はもちろん、かつて宗教やイデオロギーによって担保されていた。自然科学的知見の発達により、宗教やイデオロギーが元来与えてきた世界説明がもはや万人を納得させるものではなくなったことをさかいに、虚無的状況が出来したのである。

 

2 余談になるが、このことは科学者による科学的仮説の定立にもあてはまる。林檎が木から落下する情景をニュートンが観察したとき、地球と林檎とが引き合っているという仮説が提出される論理的必然性はどこにもなかった。ニュートンは例えば林檎の落下を招いた天使の存在を仮定してもよかったのであり、彼は彼の独断に基づいて仮説を構築し、現実世界と対照することによってその仮説の強度を試したのである。

 

 そこで問題は、それなりの強度をもった、同程度に説得的な世界観が複数並立した場合である。より具体的に言えば、我々の信奉する世界観と明確に対立する世界観を奉ずる集団が、我々の眼前に立ちふさがった場合である。こうした状況において唯一選択しうる解決は、議論による対話ではく全的な無視、あるいは力を用いた封殺であろう。その理由は、彼らの世界観と同様、我々の世界観もまた世界のすべてを説明したものではなく、それゆえ普遍妥当的な真理と呼ぶべきものではないことを、当の我々自身がよく知っているからである。ここにおいて、一般に世界観の闘争と呼ばれるものが生ずる。世界観の闘争において我々は、決して対話的になってはならない。議論することは許されるが、その議論は真摯なものであってはならず、我々は当の議論が外目には我々の陣営の圧倒的勝利に映るよう、周到に演出しなくてはならない。以上のことはいわば顕教と対比された場合における、ファッシズムの秘教である。以上述べた態度、自らの世界観が決して完全なものでない、いわば虚無に一時的にかけられた覆いに過ぎないことを知りつつ、しかし断固として敵対者を攻撃する態度、これを我々は「戦闘的虚無主義」、「戦闘的ニヒリスムス」(militanter Nihilismus)と名付けよう。もう一度言うが、戦闘的ニヒリスムスは民族社会主義の背後にある精神状態であり、敵対陣営には決して知られるべきではないが、我々の間で確実に共有されるべき態度である。

 

 以上本記事では世界、および意志による世界解釈の結果としての世界観、そしてこれらを支える戦闘的虚無主義と呼ばれるべき態度について述べた。しかしながら、このことをめぐり我々に残された、最後の大きな課題がある。現代の日本において我々民族社会主義者が戦うべき相手は、例えば共産主義といった他の世界観ではなく、むしろ世界観の欠如や、世界観の欠如した虚無的状態を自然とみる根本認識、言うなれば無意識的虚無感とでも呼ぶべき状況に他ならないのではないか。この問題の分析によって、戦闘的ニヒリスムスの思想にさらなる発展を促すこと、このことを我々の次なる課題としよう。民族社会主義が我々の知的欲求と情念とを担い、常に英雄的かつ戦闘的であり、そして何よりも常に行動となって展開しつづける思想であるように。