Voice of Fascist

VoFの転載兼雑記/現代ファシズムの可能性と実態の探求、批判的再構築の実行.

ドイツ革命からファシズムを考える

本記事の目的は既存のドイツ革命に対する研究から、その後のナチス台頭との関連性を見ることで今後のファシズム運動の発展に寄与せんとすることである。そのため、ここで書かれることは主にドイツ革命の性質であって経緯ではないためご了承いただきたい。

 

 

 ドイツ革命について、ナチスなどの反共和派が「11月の犯罪者」、所謂「背後の一突き」と喧伝し自己の勢力拡大に役立てたことは有名であるが、SPDドイツ社会民主党)指導部も「革命」ではなく「崩壊」と称すなど左右から評価されなかった。リュールプはこのドイツ革命は「革命」でなかったとする言説に反論する。ドイツ史においては1525年農民戦争から東独における1989年秋の革命に至るまで多くの革命が存在しており、同じく多くの革命が存在してきたフランスやポーランドでは革命を自国の伝統と受け止めるのに対し、ドイツではそう考えず保守的な歴史解釈を行われがちであることを指摘する。また1960年代後半の学生運動が盛んだった頃、西独においてレーテの実証的研究が大きく進展する。レーテとは「評議会」を意味し、キールの反乱をきっかけに全国に反乱を波及させた勢力である。トルミンはこのレーテを、ロシアのソヴィエトともまた異なるドイツ固有のものであったとし、それは行政・軍隊・大経営の直接民主化を求める既成の政党や組合組織とは無関係の複数の自律的、自然発生的大衆運動であった。党や労働組合に指導される運動と異なり戦中のレーテ運動は自発的でポテンシャリティが大きく一九一八年一月ストにおいても表面化した以上の力を潜在していた。しかし、十一月革命を可能にしたレーテ運動は明瞭な戦術や中央の指導機関がないまま挫折。内的原因は理論的、政治的準備の欠如により組織を作ることに成功しなかったことにあるとされる。SPDといった社民政党コミンテルンなどの既存勢力ではなく、労働者や兵士による自発的な大衆運動がドイツ革命に大きな影響を与えたことは注目に値するだろう。

 

 1980年代になるとレーヴェンタールによる「革命の不在論」が出てくる。即ちヨーロッパの1789年や1917年あるいは中国共産党の達成した古典的革命は工業社会では達成し得ないとする考えである。国家の行政機構が増大し非常に複雑な分業体制と取っており、そのような機能の連続があらゆる方面から必要とされているとする「混乱に対する拒絶反応」機能が強調され、古典的革命では暴力性を伴ったような社会・政治秩序の構造的改革は先進工業社会では民主的な形態を辿るとされる。これは今後のファシズム運動の権力闘争においても参考になる指摘であろう。

 

 ルーカスの「ラディカリズムの二形態論」によると1880年代の「ドイツ労働者階級構造の激変」によって現れた二つの労働者階層のうち「専門技能労働者」は政治への関心が強く、SPDと自由労組を自己表現の場とする読書する労働者であったとされる。彼らは図書館の利用や観劇など文化活動が盛んであり、政党や労働組合を中心とする「労働者公共圏」に属していた。専門技能労働者は労働者階級全体の運動を取り仕切り、SPDや自由労働組合の中央幹部の支柱となる。この階層は自分の労働の価値を十分に認識していたので雇用者の譲歩を勝ちとることができ改良主義に親和的になる。また、SPDが高得票を示したライプツィッヒを中心とする工業地帯ではナチス下の1933年3月の選挙においてすらSPDの得票率は確固としていた。その理由はSPD系の文化運動と関連し、スポーツやコーラス、自由宗教グループなど諸種の余暇団体が発達しており労働者が党とつながっていたからである。それに対して同じくSPDが高得票率を得ていたザクセン、テューリンゲンは大恐慌期においてSPDからKPD、ナチスに変転する。これはこの地域の労働者はSPDによる組織化がされておらず「労働者公共圏」に属していない、もう一つの労働者階層「大衆労働者」であったことを示している。「大衆労働者」は不熟練で補助的な仕事、非専門職の重労働をするものである。専門技能労働者からすると彼は野蛮で無能で「モッブ」的であり、攻撃的、非政治的だった。大衆労働者は、今や権力の側にある専門技能労働者や労働組合、政党に対する不信感を強め、既存政党である多数派社会民主党、ドイツ共産党、独立社会民主党を敵対視するようになった。新聞や本を読まず、既存革新政党を敵視していた彼ら大衆労働者にとってポスターや街頭行進、演説を中心とするナチスの扇動は極めて効果的であったと考えられる。


 労働者が二つの階層に分断され、互いに敵対し異なる公共圏に属しているのは現在も同様であり興味深い。もっと言えば現在において、専門技能労働者は存在していても「労働者公共圏」というものは成り立っていないだろう。存在するのは非活字的でナチス的な扇動を受けやすい「大衆公共圏」のみであると私は考える。この公共圏に関しては大衆宣伝の神話: マルクスからヒトラーへのメディア史を参照されたい。

 

 

バイエルン革命について

 

 

ここまでドイツ革命の性質について重点を置いて書いてきた。この章では初期ナチスが活動した舞台でもあるバイエルンで起きた革命について書いていきたい。

 

 

 はじめに、バイエルンはドイツを代表するカトリック国であり、また農業国でもあった。住民は歴史の連続性と文化の伝統性を保持しドイツの中でも特に保守的な地域として知られている。この事は近代的な工場労働者を基盤とする社会主義運動の展開を難しくし、バイエルン社会主義者たちは穏健化することを迫られる。その為彼らは農民や小市民とも手を組み議会政治を中心に活動した。

 

 

 プロレタリアート工業労働者ばかりでなく手工業者や農民、頭脳労働者を含めて国民全般の圧迫されたもの、不満足なものの欲求を満たすことを社会民主党の課題とする。即ちバイエルン社会民主党ArbeiterparteiからVolksparteiへの転移を理論的にも実践的にも成し遂げたのである。

 

 後にバイエルン革命を率いることとなるクルト・アイスナーはジャーナリストであった。彼は皇帝ヴィルヘルム二世を風刺し不敬罪で九カ月の禁固刑を受けたことで社会民主党の指導者たちに注目され、リープクネヒトにより機関紙フォアヴェルツの編集部に迎えられる。しかし、ジャーナリストという立場とカントに影響を受けた倫理的社会主義という彼独自の思想はベルリン党中央からは白眼視され、ベルンシュタインの修正主義論争の最中であったことも災いしアイスナーは修正主義者として認定される。 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発し社会民主党は城内平和を採択する。アイスナーも「ロシア・ツァーリズムの侵略主義が平和に対する最大の危険である」と演説し参戦を煽るが、後に反戦派となり党からは孤立、編集者を解任される。

 

 独立社会民主党に加入したアイスナーはミュンヘンの酒場で反戦啓蒙をすることとなる。ドイツ労働者党(ナチ党の前身)の拠点やヒットラーの主な演説会場が酒場であったように、当時の酒場と革命は密接な関係にあったようである。この戦争によりバイエルンは農業国として食料供給の重い役割を負わされることとなり、その対策として比較的負担の低い工場の誘致を要請、これにより工業化することに成功し、戦争の需要に応じた多くの軍需工場が発達、多くの労働者が工場で働くようになった。この社会階層の変化はバイエルンの政治情勢を大きく変えることとなり、アイスナーの扇動によってストライキまでが起きた。これはかつてのバイエルンでは考えられないことである。また、戦争による農民の負担は反プロイセン的感情を煽り、負けが見えてくるにつれ「ベルリン政府によって戦争に巻き込まれた」という意識が大きくなっていく。

 

 

 

 バイエルンの陸曹へリングラートの報告

 

 「開戦当時に支配的であった感激はずっと前から薄らいで、広く広がったペシミズムがそれに代わった。その危険を過小評価してはならぬ。この感情は農村をも都市をも同様にとらえている。組織された労働者は賃金が向上しかつ労働組合及び社会民主党の規律がいきわたっているために最も信頼できるが、秩序への権威はラディカルな連中の影響を受けた日組織労働者の中に存在している、しかし最も深刻な問題は労働者よりも小市民層の中に存在する。彼らはその生活を脅かされ、経済的にはプロレタリアートの地位に落ち、突如として不安に襲われる恐れがある。

 

 この状況をいち早く革命に転化しようとしたアイスナーは集会を計画する。アイスナーに感化された兵士たちを待機させ、大衆のデモンストレーションが始まるとその列に加えさせた。一行は体制側の建築物の占拠に成功し、兵営の兵士たちは支配者側の無力感もあってかアイスナー側についた。その為この間に戦闘は起きず無血で革命は成功、アイスナーを首班とする暫定政府が樹立された。市民は一夜明けて新聞紙上で政権がレーテに移ったことを知るほどであった。

 

 アイスナーの思想は当時のドイツの社会主義者たちの中では特異なものであった。彼は戦争及び戦争を起こした軍国主義的旧ドイツ国家に対してはラディカルな敵対者であったが国内政策に関しては格別明瞭なプログラムを持っていたわけではない。この点では彼の思想はむしろSPDのそれとあまり相違はない穏健なもので、生産手段の社会化を強く求めることはなかった。また民主主義について彼は「新しい民主主義の実現に強めようと述べたが、すべての市民が二年ごとに選挙権を行使するというようなことが民主主義だとは思わない」「我々はバイエルンの内政において形式的のみならず生き生きと行動する民主主義の速やかな実現に努力する。立憲国民議会の招集以前に、公共的精神と公共的制度の民主化が行われなければならない」と語る。彼がここで新しい形の民主主義と言っているものがレーテ制度を指すことは明らかであり、SPDが望む国民議会に消極的な姿が見える。だからと言って彼はボルシェヴィズムにも賛成せず、このような独自の立場はSPD極左の板挟みを誘発することとなった。

 

 この頃経済状況が極めて悪化し、失業者が増大したことでミュンヘンにおけるアナキスト共産党支持者を中心とする極左派の運動が拡大する。また、SPDは国民議会招集に渋るアイスナーに対して強く要請をする。世論的にも国民議会招集を要求する声が大きくなってきたこともあり、ついに折れたアイスナーはレーテと国民議会を巡った議会選挙を実施した。この選挙にはラディカリストも”議会選挙そのものに対して闘争するため”と称して参加する。だが結果としては右翼のバイエルン人民党が第一党となり、SPDは第二党にとどまり、アイスナーが属する独立社会民主党に至ってはわずか3議席しか取れなかった。アイスナーはSPDとの連携を模索するも拒絶され窮地に陥り、その様子を見て政権を譲る気がないと考えた右派の青年によって射殺される。この権力の空白期間に極左派はレーテ共和国宣言を行う。新政府メンバーはランダウアー、ミューザム、エルンスト・トラーの三人である。 彼らはみな文学者、詩人でありユダヤ人である。この文学青年たちの政権はエーベルト政権の討伐を受けてすぐさま崩壊することとなる。

 

 

 

 バイエルン革命にはアイスナーの人為性・指導性の性質が強く、最後にそれがアナキズム共産主義に移行したのはバイエルン住民の要求と心情から遊離したものであった。この二つの思想を持った極左派の政府メンバーが皆ユダヤ人であったということはその流浪の民としての国民性が大きく影響しているだろう。これは皮肉にもバイエルン住民のユダヤ人への反感を強め後のナチス台頭の要因となる。