Voice of Fascist

VoFの転載兼雑記/現代ファシズムの可能性と実態の探求、批判的再構築の実行.

特集:ファシストが語るファシズム 1

「特集:ファシストが語るファシズムとはこれまでの客観的なファシズム論、すなわち他者として、研究対象としてファシズムを語るという構造を脱し、ファシスト自身が自分にとってのファシズムを主観的に語る試みの連載企画です。多くのファシスト有志の方の考えを聞きたいと考えているので、もしよろしければキューアカ@Volk_Socialistまでご連絡ください。一作目は全国民族主義者同盟北星会会長からの寄稿です。

 

 私達の国をひとつの病が覆っている。それは堕落した客観主義の病、自己自身であることを放棄するという病だ。この病魔は人間に、あらゆる主観的束縛から独立した認識なるものを約束する。それはあたかも、あらゆる偏見を超越した、完全に公平な立場が存在するかのように偽る。人々はこの嘘を鵜呑みにし、ありもしないどこかに「客観性」なるものを追いもとめる。彼らはこうして自己自身であることを捨てさり、いわば服を着た公平性とでもいうべきものになりさがる。

 しかしながら、伝統的哲学が正しく教えているとおり、何かでないものは絶対に存在できない。存在するあらゆるものはその本質によって限定され、必ず何らかのものとしてのみ存在する。このことは存在においてと同様、認識においても同じである。だからこの病にかかった人達は、自分の認識が何にも限定されないと思いこむことによって、自らの立場や伝統を、自らの存在や生の可能性を手放してしまう。そして生を手放した彼らには、ただ金銭と、今や金銭によって交換可能となった生活だけが残されるのである。客観主義、物質主義、過度に発達した資本主義はこのようにして、手を取りあいながら我が国の生を蝕んでいる。

 我々ファッシストはこの病に正面から立ちむかう。我々ファッシストはまず、何よりも我々自身であることを望む。我々はすべてを差しおいて、ファッシストであろうとする。ではファッシストとは何か。またファッシストが抱く思想、すなわちファッシズムとは何であるのか。これらのことについて考えるのが、今回本記事の課題である。

 今日ファッシズムほど人々の誤解にさらされている概念は他にない。それは軍国主義や圧政の同義語として用いられたり、対立する相手への攻撃手段として用いられたりしている。そしてほとんどの場合、この使用は否定的な価値判断を伴って行われる。今やファッシズムという語は相手を卑下するための蔑み言葉となり、その内容をほとんど喪失してしまった。

 しかしあらゆる有意義な思想と同じく、ファッシズムもまたいくつかの根本的な教説に還元されうるはずだ。本質的にいってファッシズムとはおそらく、政治学の対象となる現象を意味する語ではない。それはむしろいくつかの根源的な命題から展開し、我々の生と生活のすみずみまでを規定しうる、ひとつの有機的な体系であるはずだ。

 あらゆる偉大な詩人は、決して個別の作品に現れないたったひとつの根源詩から詩作するのだ、ハイデッガーはかつてそう述べた。このことは思想においても同じである。あらゆる思想は核となる世界観や情念を中心として形成されるのであって、この核となるものが文章や作品や政策という形式で、現実の社会において展開されるのである。だから何か或る現象の一部のみをつかまえてファッシズムと騒ぎ立てる人々、このような人々はファッシズムの何たるかをまったく理解していないし、さらに思想一般の何たるかもまったく理解していないということになる。

 確かに我々も今のところはまだ、ファッシズムの本質について完全には理解していない。しかし、今や我々は客観主義による自己疎外を乗りこえ、我々自身であることを望んでいる。そして重要なことに、我々は少なくともファッシストである。自らが芸術家として行う実際の創作が、芸術について費やされた一万の言葉をはるかに凌ぐ体験であるように、ファッシズムを理解する最良の方法は、自らの肉体をとおしてファッシズムを展開させること以外にない。ジェンティーレがファッシズムを「教理の内在する行動」と定義したとき、彼は以上のようなことを考えていたはずなのだ。公平さを求めて天秤を注視しつづけるような生活を、我々ファッシストは拒絶する。我々はどちらかの重りになりたい。我々は一発の銃弾になりたい。我々は一振りの刀になりたい。暴風や、雷や、炎になりたい。荒れ狂う海になりたい。静まりかえる雪原になりたい。我々はひとつの力になりたい。これこそがファッシストの願いである。

 

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 我々は今からファッシストとして、ファッシズムの何たるかについて考察してみよう。その際注意するべきは、この試みが科学者の手による観察ではないということだ。それはむしろ、神秘主義者が行う自己省察に近い。我々は自らの外にある対象を観察し、それを客観的に記述しようとするのではなく、自らの内を深くまなざし、ファッシズムというひとつの思想が生まれる瞬間を、言語にのせて語りだそうとしている。否むしろファッシズムとは行動であって、我々は目下思考し、記述し、読み、理解するという行動を為しつつある。我々はまさに行動の只中にいるのだから、ファッシズムはまさしくこの瞬間にも我々の肉体に担われ、我々をとおして現実化しつづけているに違いないのだ。

 ファッシズムの根源に触れる時がきた。我々は自己の存在の根底に探りをいれ、九つの根本的命題を取りだしてくる。

 

 

      1.虚無主義

   2.認識論上の相対主義

   3.力の発現としての世界 

   4.思弁と行動との一致

   5.理性と感情との統一

   6.伝統の尊重

   7.国家ないし民族共同体における、個人の十全な自己実現

   8.社会正義の希求

   9.戦闘的、英雄的行動の賛美

 

 

これらそれぞれについて、以下にそのあらましを述べてみよう。

 

 

 1.虚無主義:70年ものあいだ続き、そして現在も進行しつつある物質主義による文化破壊、それがもたらす廃墟と残骸のうえに、我々は立っている。我が国本来のあらゆる価値体系は、いまだかつてないほどの蹂躙を受けている。我々ファッシストが出発するのはここからである。ファッシストは、人間の生を意味あるものにする根源的な価値が決して把握され得ないという認識を、まず甘んじて受け入れる。現代社会に乱立する様々な思想の潮流、そのどれもがすべて正しいわけではなく、すべて誤りであるというわけでもない。思想とは畢竟、ひとつの世界観なのであって、世界のすべてを説明しつくす普遍の真理というものではない。

 2.認識論上の相対主義:このような考えが、認識論におけるファッシストの相対主義を導く。ファッシストは自らの思想すなわちファッシズムが、普遍妥当的真理であるなどとは露ほども思わない。それは他の思想と同様、世界を説明する方法の一種にすぎないのであって、我々が数多くの思想の中からファッシズムを選択するのは、純然たる意志の発動の結果である。ファッシズムによって普遍の真理を捉えることは不可能であるが、そのようなことをファッシストはまったく気にかけない。なぜなら我々は、現実の社会を動かすのが真理などではないことを、身をもって知っているからである。

 3.力の発現としての世界:AUCTORITAS, NON VERITAS FACIT LEGEM.(真理ではなく権威こそが法をつくりだす。)この言葉どおり、世界変革の力となるのは普遍の真理などではなく権威であり、さらに言えば力である。ファッシストは力を信奉し、この世界をさまざまな力が覇権を競いあう場として捉える。力がせめぎあう世界の中で、あらゆる存在者は存在を維持するために力を必要とする。だから力とは、存在の動的側面である。我々ファッシストは存在することを望み、自分自身ひとつの力であることを望む。これがファッシストの存在論である。それゆえファッシストは、「権利」や「義務」といった近代的自由主義の枠組みに属する概念を否定することはしないが、それらに絶対の価値をおくこともない。権利を有していても不可能なことや、義務を有しているのにそれを履行しない者は、現実にいくらでも目にすることができるからである。むしろファッシストは権利を主張しうる力や、義務を履行せしめる力の必要性を主張するのである。ファッシストは現実主義者である。

 4.思弁と行動との一致:述べたように我々は力であって、この力を世界に向けてふるおうとする。そしてこのように力が発動する際の形式こそが、行動に他ならないのである。ファッシストは行動を賛美する。行動を通じてのみ、我々は世界に働きかけることができる。その際に、効率や方向性の点で行動を規定するのが、思弁である。しかし行動が思弁の下位に置かれ、行動が思弁に従属することは決してない。思弁は行動をとおして展開し、その結果如何によって修正を加えられ、さらにもう一度行動を規定する。この循環において思弁は、それ自体が思考というひとつの行動として、行動と一致する。これこそがファッシスト的純粋行動の思想なのであって、行動のみで思弁を伴わない者たち、またはその逆の者たちをファッシストは軽蔑する。

 5.理性と感情との統一:思弁と行動についていま述べられたことは、理性と感情との関係においてもそのままあてはまる。ファッシストは行動を誘発する契機として、感情を高く評価する。その際自らの感情について研究し、それに概念を与えて体系へと仕上げるのが理性の役割であるが、理性は感情を一方的に分析するのではなく、それ自体もまた感情によって左右され、規定されている。だから理性と感情との関係は、行動と思弁との場合とおなじように、相互依存的である。二つは別々の能力であるが、ひとりの人間において緩やかなまとまりをなし、ひとつの力として外界へと噴出する。ファッシストの人間観はそれゆえ、人間を余すところなく包摂しようとする、全人的なものである。

 6.伝統の尊重:合理主義者がするように、ファッシストが伝統の非合理性をもって伝統を排撃することは決してない。なぜならファッシストはあらゆる現象を力の現れとして解釈するのであって、伝統がそれ自体として有する力をファッシストは積極的に是認するからである。さらにまたファッシストの人間観は、述べたとおり全体的なものであるから、ファッシストは人間のうち或る側面が伝統的価値によって規定されることを排除せず、むしろそうした側面を人間にとって必要不可欠のものと考える。ご皇室、国体、その他伝統的諸価値を遵守し、これに新たな生命を吹き込もうと欲する少数の心ある人々、ファッシストは常にこうした人々と共に戦ってきたし、またこれからも永劫に戦い続けるのである。

 7.国家ないし民族共同体における、個人の十全な自己実現:述べたとおりファッシストは、伝統的諸価値によって規定されることを人間に必要不可欠な要素と考える。だからファッシズムの人間把握において、自国の伝統から離れた「人間一般」なるものは、どこにも存在しない空虚な抽象にすぎない。むしろファッシストは、伝統的諸価値を喪失することなく、しかも最も強力に意志の力が発揮されうる共同体、すなわち企業でもなく、階級でもなく、世界でもなく、まさしく国家において、人間の自己実現が最高の完成をみるという信念を持つ。この点でファッシズムは資本主義、共産主義世界市民主義などから、自らをはっきりと区別するのである。この国家における個人の自己実現という観念はさらに、ファッシストを政治参画へと駆り立てる。この認識を待ってはじめて、ファッシズムはひとつの政治思想となるのである。

 8.社会正義の希求:ファッシストは国家に所属するあらゆる個人が、国家において自らを最高程度に表現することを望んでいる。それゆえファッシストは、個人の自己実現の妨げとなる社会的束縛を、できるかぎり排除しようとする。ただしこの排除によって、国民の一部の集団が一方的に不利益を被ることを、ファッシストは望まない。そのような事態は国民を分断し、国家が国家たりうる所以である全体性を損ない、ひいては国家のもつ力を衰えさせるからである。ファッシストは社会的正義を希求し、利益の総体を全国民へと、可能な限り公正に分配することを望んでいる。ファッシズムの唱える階級協調の思想は、以上のようにして導きだされる。

 9.戦闘的、英雄的行動の賛美:ファッシストの見る世界は、さまざまな力を主体とした闘争の場である。ファッシストは自らがファッシストであることを望み、世界にあふれる力のひとつであることを望む。こうしてファッシストは闘争の只中に身を投げだす。ファッシストが遂行する戦闘は、少なくともひとつの行為であり、存在である。この場合中立の立場を決めこむことは、自らの存在を手放すことを意味する。戦闘的行為はそれ自体として称賛されるのであって、効率や政治的情勢に鑑みた評価は、この賞賛ののちに為されるのである。

 

 

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 以上我々はファッシストとして思想を言語で展開し、それをもって自らファッシズムを遂行したのであった。私がこれを書き、読者諸氏がこれをお読みになるあいだ、その書き、読むという行為のうちで、ファッシズムは確かに我々と共にあった。今後ファッシストが自らの言葉でファッシズムを語り、自らの体でファッシズムを表現するのなら、そのときファッシズムは展開の場を得て、不断に成長を続けていくはずだ。本記事が現今我が国の愛国的運動に、ごく僅かなりとも寄与することができれば幸いである。